
翻訳はとても魅力的です。非常に高度で複雑な作業であり、生み出された訳文は翻訳者の姿をありのままに映し出します。また、視野を大きく広げると、翻訳は人類にとって必要不可欠な営みであり、異なる背景を持つ人たちは翻訳を通してお互いを理解しあえます。この記事では、翻訳の魅力について書きたいと思います。
「訳す」ということの複雑性
Good silver plate was displayed on the buffet, but the curtain behind the table looked dusty.
食器棚には良質の銀皿が飾られているが、食卓 のうしろにかかっているカーテンは埃がかぶって いるように見えた。
『なぜ?簡単なのに必ず誤読する英文(著者:越前敏弥)』から引用
この日本語訳には誤訳が含まれます。どこが間違っているでしょうか?
著者の越前さんは、文法的な目線から原文を分析します。
すると、主語の “Good silver plate” に冠詞がないことに気づきます。
もし、“plate”が「皿」の意味で使われていると仮定すると、”plate”は可算名詞であるはずなので、冠詞の”a”または”the”がつく、または”plates”と複数形になるはずです。
しかし、“Good silver plate”はそのどちらでもありません。これに文法の間違いがないとすると、考えられるのはこの“plate”が不可算名詞である可能性です。不可算名詞の”plate”の意味を辞書で調べると、「食器類」とあることから、ここでは「上等な銀の食器類」と訳すのが正しいということがわかります。
また、「皿」と訳した時の場面の不自然さにも気づいてほしい、と越前さんは言います。
食器棚に一枚の銀の皿のみが飾られている、という状況は不自然だからです。
この越前さんの解説からわかることは、翻訳は原文への深い理解と綿密な調査が不可欠である、ということです。
また、読者にとって好ましい訳文を生み出すことも大切です。これを示す例として、山岡洋一さんの『不思議の国のアリス』に関する比較分析を引用します。
『不思議の国のアリス』はこれまで複数の翻訳者によって翻訳されており、それぞれが特徴のある訳文になっています。山岡さんは二つの訳を取り上げます。
Alice was beginning to get very tired of sitting by her sister on the bank, and of having nothing to do: once or twice she had peeped into the book her sister was reading, but it had no pictures or conversations in it, “and what is the use of a book,” thought Alice, “without pictures or conversations?”
アリスはそのとき土手の上で、姉さんのそばにすわっていたけれど、何もすることはないし、たいくつでたまらなくなってきてね。姉さんの読んでる本を一、二度のぞいてみたけれど、挿絵〔さしえ〕もなければせりふもでてこない。「挿絵もせりふもない本なんて、どこがいいんだろう」と思ってさ。(矢川澄子による訳)
アリスは姉とならんで川べりにすわって、なにもしないでいるのがそろそろ退屈になっていた。一、二度、姉の読んでいる本をのぞいてみたけれど、絵もなければ会話もない。「読んでもしようがないのに」とアリスは思った。「絵も会話もない本なんて」(柳瀬尚紀による訳)
『翻訳講義(第1回)翻訳は面白い(筆者:山岡洋一)』から引用
山岡さんは想定する読者によって訳し方が異なることを指摘しています。一つ目の矢川澄子による訳は比較的年齢が低い読者層を意識しており、その結果として、語尾の口調が優しくなっています。一方、小説向けの柳瀬尚紀の訳文では硬い口調になっていることがわかります。
もう一つ、英語学習者向けに訳された例も紹介されています。
①Alice was beginning to get very tired of sitting by her sister on the bank, ②and of having nothing to do: ③once or twice she had peeped into the book her sister was reading, ④but it had no pictures or conversations in it, ⑤”and what is the use of a book,” thought Alice, ⑥”without pictures or conversations?”
①アリスは、土手の上で、お姉〔ねえ〕さんのそばにすわっているのが、とても退屈〔た いくつ〕になってきました。②おまけに、何もすることがないのです。③一、二度、お姉〔ねえ〕さんの読んでいる本をのぞいてみたけれど、④その本には、絵もなければ会話〔かいわ〕もありません。⑤「へんなの」とアリスは考えました。⑥「絵もお話もない本なんて、なんの役〔やく〕にもたちはしないわ」(福島正実による訳文)
『翻訳講義(第1回)翻訳は面白い(筆者:山岡洋一)』から引用
この訳文の特徴は、原文となるべく同じ構造で訳されていることです。わかりやすくするため、原文と訳文が対応する箇所に同じ番号をつけてみました。この番号を見ると、その順番が前後で入れ違うことなく訳されていることがわかります。原文と訳文を見比べやすくすることで、英語の意味が容易に確認できるようになっています。
訳文は訳者を映し出す
二つ目の翻訳の魅力は、訳文を見るだけでその翻訳をした人が何者なのかがわかることです。
これも例を挙げて説明してみます。
Pre-editing is an essential skill to fight against competitors.
この例文にある“pre-editing”の適切な訳語として、何が頭に思い浮かびますか?
(ここではあえて文脈を一切落とした状態で考えてみてください)
意味はわからないけど“pre”が「前」、“edit”が「編集」だから、「前編集」と訳すべき?いや、これは機械翻訳にかける前に原文を編集することを指すから「プリエディット」と訳すべき?そもそも、一文だけでは文脈がわからないから答えられない?
どれも正解だと思います。
この“pre-editing”という用語は、筆者の生活する範囲では2通りの意味を持ちます。1つは先述の、機械翻訳に関連する「プリエディット」。翻訳に携わる人や機械翻訳に詳しい人はこの原文を以下のように訳すでしょう。
①プリエディットは競合他社と戦うために必要不可欠なスキルです。
※プリエディット…機械翻訳にかける前に原文を人の手で編集しておく作業を指します。
他方で、この“pre-editing”は筆者がいつもプレイしているシューティングゲーム『フォートナイト』でも使われる用語です。
『フォートナイト』では、シューティングゲームには珍しい要素として自分で遮蔽物を建築することができます。この建築物は設置した後に好きな形に「編集」できるのですが、設置する前にも編集することができるのです。それが「事前編集」と呼ばれており、英語では“pre-editing”といいます。とすると、フォートナイトのプレイヤーが最初の例文を見たとき、このように訳すでしょう。
②事前編集は競合プレイヤーと戦うために必要不可欠なスキルです。
①の訳文を見たとき、翻訳した人は機械翻訳・翻訳に詳しい人であると判断できます。
一方で、②の訳文を見たときは、フォートナイトをプレイしている・フォートナイトに詳しい人が訳したことがわかります。
このように文章の読み方はその人が持つ知識によって大きく影響され、それにともない訳文も訳者の読み方に大きく影響を受けます。上記は極端な例でしたが、言葉の解釈は10人いれば10通りあるのです。
これが翻訳に正解はないと言われる所以であり、面白いところでもあります。
翻訳は相互理解を築く
もっと壮大な目線で翻訳を語ると、翻訳は他者間の相互理解の鍵と言えます。
これが、3つ目の魅力です。
多くの場合、翻訳は読者から求められて成り立ちます。なぜなら、読者は「自分では理解できない言葉で書かれた文章を読みたい」と思っているからです。翻訳がなければ、読者はたくさんの時間をかけて外国語を学ばない限り、外国語で書かれた文章を理解できないままです。翻訳があることで、ある言葉・文化で書かれたものを異なる言葉・文化の人に届けられます。
例として、音訳(カタカナ訳)について考えてみます。日本語への翻訳ではしばしば外来語の音をそのまま表現してカタカナで表記されます。
例えば、「ティール組織」は英語圏の文化で生まれた概念です。ティール組織とは、それぞれのメンバーが対等であり、自主的に成長・意思決定するような組織形態を指します。この言葉が日本語に訳されたことによって、これまで無かった組織形態の概念が日本にも広まりました。八楽株式会社は日本の会社ですが、「ティール組織」を運営方針として掲げています。翻訳は、新しい概念を異文化に伝えることで、異文化間の相互理解を促しているのです。
相互理解は、他人と接する中で異質に感じる部分を知ることであり、知ってもらうことであると言い換えられます。時には自身を守るために異質なものに反感を覚えたり攻撃的になってしまったりすることがありますが、それは正体がわからなくて不安だからです。翻訳を通すと、異質な概念が自分の言葉に言い換えられ、その正体を知ることができます。
そして、相互理解を実現することで相手の状況をより詳しく・広く知ることができます。相手が大切にしていることや必要なことを知ることでお互いの折衷案が生まれ、関係性の改善、ひいては、争いのない平和な状態へとつながります。
翻訳はこの大事な役割を担っているのです。
(文責:平岡 裕資/ローカリゼーションスペシャリスト)