「あなた、何故ひとことも喋らないの?」
これは私が、留学先で行ったとあるディスカッション中、先生から投げかけられた言葉です。
ディスカッションは勿論英語。ここで「日本人は英語スピーキングをあまり練習しないからディスカッションも弱い」と結論付けるのは、少し無理のある論理かと思います。
本日は、そんな英語ディスカッションについてのお話です。
英語ディスカッションの本当の難しさ
私はある時期、企業倫理に関するコースを受講していました。留学前から楽しみにしていたコースで、英語にも慣れてきた頃のことです。そのコースで、グループディスカッションがありました。各グループが好きに校内の部屋を予約し、先生が各部屋を回っていくシステムです。私のグループはとても雰囲気がよく、各々が自由に意見を述べており、議論は順調に進んでいました。
あるテーマについて私が意見を述べ終えた直後、先生が私たちのグループの部屋を訪れました。しばらく議論を聞いていた先生が、最後に私に向かって「あなたは、何故ひとことも喋らないの?」とひとこと。この時私は冷静に考えている余裕がなかったため「注意された→なにか発言しなくては」という思考に一直線。結局、先ほど話した自分の意見を、他人へのリフレクションを交えつつ先生に向かってもう一度説明することになったのです。
少し時間が経ってから気づいたのですが、私が、自分の意見を述べ終わった後でしばらく発言を控えていたのには理由があり、それはおそらく日本文化と深く関連しています。「話し上手は聞き上手」などとよく言いますが、日本では、話すことよりも聞くことの方を美徳とする風潮があるかと思います。あくまで個人的な感想ですが、「誰かが話している時はじっと耳を傾ける態度」が尊重され、発言”しすぎる”と白けた目で見られます。
おそらく、当時の私は無意識に、他者の発言ぶんとのバランスをとろうとしていたのだと思います。特にそれまでに多くの意見を述べていたため、心のどこかで「少し控えるべきだ」と考えたのかもしれません。また、そもそも、ものすごくスピーディーに言葉をかけ合う文化の人たちのディスカッションに「混ざる」のは、「聞くこと」を良しとする人にとっては難しいものがあります。なぜなら自分の価値観を優先して「他者の意見をきちんと最後まで聞く」と、多くの場合、その本人が発言するヒマがないからです。実際は最後まで聞き切る前に、他の人が発言し出すことが多いので、「最後まで聞く→考える」という順で思考しているようでは参加できないことが多いです。
難しいのは、ここに評価が絡んでくることです。本来、「発言することが素晴らしい」という考え方と、「聞くことが素晴らしい」という考え方に優劣はないはずなのですが、色んな文化の人が混じったディスカッションを、例えば前者に属する人が評価する場合、おそらく、どんどん発言している人の方を高く評価するでしょうね。これはとても難しいことだと思います。「発言」「聞く」の二つは、実際には程度の問題で、どのくらいのバランスを理想とするかの価値観が個々人で違っているのだと思います。同じ文化に属する人は、似たようなバランスを好む傾向があると思います。これが、「○○人はディスカッションが下手」という言葉につながってくるのかもしれません。
今では、あの時なぜ、自らの文化や価値観を堂々と説明しなかったのかと悔しく思います。特に場所がインターナショナルスクールであったため、私の所属する文化も、同じように尊重されることができたのです。その場の大多数が従う価値観に沿ってみるのも、とても面白いし勉強になります。しかし、自分の信じる自国の価値観を、アサーションするべき場面もあるのではないでしょうか。